□ 2003.02.10 明治の病院建築 
 
栃木県佐野市にある影澤医院の現況調査を実施。
影澤院は明治から4代続く医院。建物は明治42年上棟、同44年には開院したもの。現在も外科を中心に開院している。建物は木造2階建て寄棟和瓦葺き、 ベランダ車寄せ付き下見板張りの典型的な明治時代の洋館。特に外観意匠に優れており、車寄せ柱のエンタシスや、 名正面中央のペディメントにはデザイン化された病院名とそのイニシャルが陽刻されている。また2階腰壁には十字の飾りが取り付けられ、 病院建築であることを主張している。

今回、任意の調査であるにもかかわらず、快くご協力くださった影澤医院長ほかご家族・医院の皆様にお礼申し上げます。

□ 2003.02.10 大田区登録文化財調査

大田区馬込にある河原家住宅の現況調査を実施。
河原家住宅は平成12年に国登録文化財に登録された建物で、馬込の時計台として親しまれている建物である。 本建物は2度にわたり 旧馬込小学校の校舎の一部
を移築したほか、馬込最初の特定郵便局としての歴史を持つ。

旧馬込小学校の移築は大正14年と昭和37年の2回。大正14年には、関東大震災後の急激な児童数の増加に対応するため、 明治18年建築の校舎(茅葺の木造平屋建て式台付きの校舎)建替えに際し、式台及び教場の一部を移築。新校舎はベランダ車寄せ付き、 菱形スレート葺きの木造2階建ての洋風校舎で、中央部分に時計台が付いていた。昭和37年には再度の校舎建替えに際し、 時計台及び校舎部材の一部を用いて増改築を行ったもの。 また昭和3年には特定3等郵便局を開局。通りに面し、和洋風のモダンな棟を増築した。 現在は個人住宅として使用されており、

外部仕上の部分的な変更などが行われている。 外観保存や用途を変更しての現地保存等、登録文化財・近代化遺産の保存例として興味深い事例である。

 □ 2003.01.25 足利市近代化遺産調査完了

平成12年度より行ってきた足利市近代化遺産調査が、全調査を終了しました。
市内全域を対象に行った本調査は、明治以降の産業遺産・洋風建築・土木遺産を取り上げています。
足利市の近代は織物工業を中心に発展しました。それらの工場建築や、製品の運搬を担った軽便鉄道、東武鉄道の橋梁群など、 特徴ある遺構が確認されています。他にも群役場・学校・医院や記念建築も多く残っており、バラエティに富んだ調査結果が集まっています。
平成15年2月22日(土曜)には『市内近代化遺産調査報告会』として、市文化財係主催の調査報告会が行われます。 ここでは3ヵ年にわたる調査の結果を、市内に残る遺産の特色の他、産業・建築・土木の各遺産からいくつかを取り上げてご紹介させていただきます。

 【日時】:2月22日(土) 午後1:30〜
 【場所】:助戸公民館ホール棟
 【問合せ先】:足利市教育委員会 文化課 0284-20-2230

 □ 2002.11.30 登録文化財の改修事例

【登録有形文化財の改修】
「登録有形文化財」は平成8年の文化財保護法改正により始まりました。当社では平成9年〜平成11年にかけて 登録有形文化財古宇田家住宅の調査・改修設計監理・報告書作成を行いました。
(写真は建築再生ページをご覧ください)

【古宇田家住宅の概要】
古宇田家住宅は大正15年に、旧内務省・宮崎県知事古宇田晶氏(近代和風建築の設計者である古宇田実氏の実兄です)の自邸として建築されました。 木造2階建て、切妻スレート葺き(当初材は菱形スレート)の洋館で、外観意匠は北海道開拓使の建築にも用いられた、 アメリカンコロニアルの影響が感じられるものです。

【登録文化財としての改修】
外観保存を原則とする登録文化財は、改修に際し外観の3/4を保全することが義務付けられています。この改修では外観の保全だけでなく、 内外共にできる限り建築当初の姿に復元をしています。復元の対象とした部分は、主に水廻りを除いた各室で、 食堂に関しては生活スタイルの面から一部間仕切りの変更を行いました。通常、改修の際には個室や床面積の確保など、 現代の生活スタイルに合わせて間取りなどを変更することが多いものの、今回は地下室を作ることで室内の復元を可能にしています。

 □ 2002.11.27 旧陸軍省板橋兵器庫煉瓦壁調査完了

旧陸軍板橋兵器庫の遺構の現況調査が完了しました。
これは現在、東京入国管理局第2庁舎に残る長さ約34m、高さ5.6メートルの煉瓦塀です。通常の塀と違い、アーチ開口を持ち、 上部は3段の蛇腹になっています。調査によりこの塀は建築物の一部であることが判明しました。 この建築物は兵器庫敷地の外周を囲っていた回廊状の建物で、主に倉庫や住宅に使用していたものです。 建物は煉瓦造の躯体に木造と推定される小屋組みを架けたもので、屋根は和瓦で葺かれていました。 現在残っている塀の西側に近接する形で、火薬製造所(現在の帝京大学医学部)からのトロッコが引き込まれていました。

旧陸軍省板橋兵器庫と周辺の軍施設
明治39年に創設された兵器の保管庫群です。明治後期から昭和初期にかけて、現在の北区王子・十条・桐が丘を中心とした一帯は 「軍都」とも言うべき発展を遂げました。この地域には主に陸軍省の倉庫・兵器関連の製造所が置かれていました。 大正時代には陸軍省内の兵器廠の管轄となる、銃砲製造所・火薬製造所・兵器庫・火薬庫。補給廠管轄の陸軍被服倉庫がそれに当たります。 これらの場所で保管されていた物資は、軍用鉄道を経て旧国鉄赤羽駅付近から埼京線を通じて、全国各地に流通していました。 兵器廠においては、より円滑な製造保管を図るため、銃砲製造所・火薬製造所・兵器庫・火薬庫をそれぞれトロッコで結び、 兵器庫敷地内の軍用鉄道を通じて搬出を行っていました。

 □ 2002.10.26 旧陸軍省『板橋兵器庫煉瓦壁調査』

旧陸軍板橋兵器庫の遺構を現況調査中です。これは現在、東京入国管理局第2庁舎に残る長さ約34m、高さ5.6メートルの煉瓦塀です。 通常の塀と違い、アーチ開口を持ち、上部は3段の蛇腹になっています。建築物の一部である可能性を含めて、歴史調査や建築的価値を検討中です。

旧陸軍板橋兵器庫とは
明治39年に創設された兵器の保管庫群です。明治後期から戦前にかけて、現在の東京都北区王子・十条を中心とした一帯は 「軍都」とも言うべき発展を遂げました。兵器庫もその一端を担い、火薬や兵器の製造・保管・運搬までを複合した施設群の中にあります。 兵器廠においては銃砲製造所・火薬製造所・兵器庫・火薬庫をそれぞれトロッコで結び、軍用鉄道によって他の軍施設との搬出・搬入を行っていたようです。

 □ 2002.09.06 黄金湯記録保存及び部材保管
 
品川区の銭湯・黄金湯の解体に伴い、建物の記録保存と浴場タイル絵の部材保管を委託しました。

黄金湯は大正期の創業。モダンな陸屋根玄関付の入母屋の脱衣所と、天井の高い切妻屋根の浴場で構成されています。 浴場には東京の銭湯の特徴であるタイル絵が男湯・女湯共に3枚ずつ残っており、章仙(鈴栄堂・九谷)の絵付け。 建物の記録保存とタイル絵の部材保管は、品川区教育委員会が緊急の対策として実施したもの。予算難の昨今、英断と言えるのではないでしょうか。

 □ 2002.09.06 明洞大聖堂修復フォーラム
 
平成14年3月にソウルで開かれた「明洞大聖堂修復フォーラム」に、講師として参加。煉瓦造の修復について講演を行いました。 主催は韓国建築家協会。プログラムは、講演と質問会とで構成され、講演者は他に金晶東氏、Michael Stoc氏。

【明洞大聖堂とは】
ソウル市街の中心部、小高い丘の上に立つ、韓国を代表するカトリック聖堂です。現在は国の史跡に指定されています。
明洞大聖堂は国産煉瓦を2枚半で積んだ、建築は1800年代です。鐘楼を兼ねた尖塔をもち、 寝廊の両側に側廊が配置されたオーソドックスな平面形式を持っています。内部はアーチやヴォールト天井を多用し、 パイプオルガンや、新約聖書と韓国における聖人をモチーフにしたステンドグラスで飾られています。

【修復フォーラムの目的】
現在明洞大聖堂では、煉瓦壁面及び礎石部分の劣化が進んでおり、その修復方法や修復方針を考察することが急務となっていました。 また煉瓦外壁表面については、現在までに2度の部分修復が行われており、その修復の再考察を含め、 今後予定される修復のステップにすることを目的としていました。
【講演の概要】
今回の講演は、日本大学理工学部の片桐正夫教授と連名で、「日本における歴史的建造物の修復理念と組積造修復の現況」を表題として講演しました。
題材は、

 @修復における基本理念

 A実際の修理工法・組積造の重要点

 B明洞大聖堂における考察

でした。

 □ 2002.08.05 木造武道場の見えない仕掛け 
                ー高千穂学園武道場の場合ー

【現存する木造武道場】
戦前の木造武道場というと、京都武徳殿や明治村に移築された無声堂などの有名どころ挙げられますが、実は以外に現存していません。 ましてや現役の武道場となると、ほとんど見当たらないのではないでしょうか。
ここでご紹介する高千穂学園武道場はほぼ建築当時のまま、現役で使用されている、ちょっとユニークな武道場です。

【高千穂学園と武道場】
この武道場を所有する高千穂学園は、現在杉並区で幼稚園と高千穂商科大学で構成される学校法人です。創立は大正3年。川田鉄弥氏を創始者とし、 渋沢栄一氏らの協力を得て開校した。川田氏は合気道の始祖でもあり、現在武道場は合気道場として使用されています。 しかし建築上は歴史的な背景も起因し、剣道場兼柔道場として設計・施工されました。開校当時は下見板に和瓦葺きの講堂や教室・図書館などが建ち並び、 近代建築によるキャンパスが整備されていたが、当時のもので現存する施設は、この武道場のみです。
広く学校建築としてみると、大正から昭和初期にかけて私立学校の郊外進出が進み、杉並においても中央線の整備に伴って複数の学校が広いキャンパスを所有し、 次々に開校した。しかし現在も当時の姿を残す学校は少なく、木造校舎としてはこの1棟のみであることから、区指定文化財に指定されています。

【武道場の概略】
この武道場は開校に先駆け大正2年に竣工した、切妻玄関つきの木造平屋建ての建物です。学内唯一の切妻亜鉛鉄板瓦棒葺きですが、それ以外は他の建物と同一意匠である、ペンキ塗装の下見板と格子に桟を組んだ木製建具を用いた洋風建築です。また構造の上でも、木造トラスを用い、内部空間に柱を建てずに大空間を維持していることや、大谷石の布基礎を用いるなど当時最先端であった技術で施工されています。洋風の外観を持つ武道場は、その当時の「和魂洋才」に合致する建築でもあります。

【見えない部分の最新技術と、古典技法】
上記をお読みになって、この武道場の価値はその希少性と、現在でも積極的に利用されている点であると思われるのではないでしょうか。木造トラスと布基礎を用いた建築も、亜鉛鉄板葺きに下見板の建物も特に珍しい訳ではなく、純粋に建築的な価値として何を挙げられるのか。それは見えない部分に隠されているのです。
一口に見えない部分といってもそれはどこか?天井裏?控え室?まさか、隠し部屋・・・・と様々あるわけですが、ここでは全部はずれ。小屋は木造トラスの表わしなので天井裏はそもそもないし、控え室は普通の更衣室。内外共、至ってシンプルな建物で隠し部屋など、造れない。
そうするとすれば答えは一つ。床下です。
この武道場は大谷石の布基礎を使用することで、床懐が70cmほどあります。この懐を利用して武道場に不可欠な二つの効果を得る仕掛けを作っています。
まず一つ目は床面の柔軟性を得るため、壁と床の縁を切り、大引き下にバネを等間隔に設置しています。このバネはスプリングコイルと板バネを組み合わせたもので、ちょうど目のような形をしています。これが束の変わりに床を支え、床の振動を吸収する役目を果たします。まだ円タクすらない時代、自動車の部品として使われていたバネを建物に利用する。最新の技術による、果敢な挑戦だったのではないでしょうか。
さすがにバネの形状やエキスパンションの方法は違いますが、原理的には現在も運動場等を作る際に用いられています。
もう一つは剣道の踏み込み音を対象とした、音の反響を効果的に演出する装置です。
これは先のバネと違い、能舞台に見られる伝統工法を用いています。能舞台では床下を三和土とし、三和土面に穿った穴に少量の灰や砂を入れた甕を埋けます。この武道場も能舞台同様の方法で、9箇所に甕が埋けられていました。戦前までは剣道場の床下に甕を埋けることがあったと言いますが、現存している例はほとんどないようです。

【現在の床下】
バネと甕の機構は資料にはあったものの、実際確認できたのは平成8年の修復工事のときでした。この修復により、床下がどうなったかというとできる限り当初材で修復してあります。バネも甕もいくつかは破損が著しく、新規に取り替えなければなりませんでしたが、取替え材も既存にできるだけ合わせて復元しています。ただ一つ以前と変わったことは、合気道用の畳を揚げると床下の点検口があり、バネや甕の様子を見ることができること。
せっかく使っている建物の隠れ価値、ちょっとのぞき見るのも楽しいものです。

□ 2002.07.24 歴史的建造物の耐震補強 
 ー旧内野家住宅主屋を例にー
 
【阪神・淡路大震災と耐震補強に】
成年1月17日に発生した阪神・淡路大震災以降、木造の歴史的建造物において耐震補強は重要な課題として認識された。特に利活用施設のように不特定多数が利用する場合、一層の安全性が求められるようになった。
日本において歴史的建造物と認知される基準は、一般に築後50年を経過したものとされ、現行法規の耐震基準を充たしてはおらず、修復に際しても在来の工法・技法を踏襲することが多い。

【耐震調査】
旧内野家住宅主屋は昭和55年10月、横浜市港北ニュータウンの開発に伴い、同市緑区よりせせらぎ公園内に移築されたものである。移築復元工事に当たって、建築当初の姿に復元した。このときの建築用途は屋外展示物であり、施工は当初工法で行われた。(但し基礎の設置と、銅版による屋根の不燃化の2点について工法の変更が行われた)
その後平成9年、ボランティアによる積極的な利活用目的とする公園施設として再整備するにあたり、水屋等の整備と併せ、旧内野家の耐震設計および耐震補強を行うこととなった。
耐震設計のコンセプトや補強方法を決定するに当たっては、建物の状態や構造的な性質を把握する必要がある。それには綿密な現地調査が必要であるため、以下の調査を行った。

      @現況破損調査及び部材調査
      A地質調査
      B常時微動測定

【耐震設計】
歴史的建造物の価値は、その意匠・様式とともに、工法・技法を含めて評価される。
修理や補強に際して、工法・技法の継承は歴史的建造物の価値として不可欠なものであり、その場合、建物固有の力学的特性を変えずに耐震補強をすることが望ましい。 また登録文化財などにおいては、建物の継続的な利用を促進する意味において、外観の3/4を保全し、それ以外の部分での改築は自由ともしている。
これらを念頭におき、前記調査の結果と併せて耐震設計のコンセプトを以下のように決定した。

a.指定文化財ではないため外観保存を行うこととし、補強は内部で行う。

b.補強を行う壁等の撤去・解体はできるだけ少なく留める。撤去・解体した壁は、補強後に既存仕上げに準じ復旧。

c.材料の耐用年限を考慮し、できるだけ合板等の現代的な材料を壁内部に塗り込めることはしない。

d.将来、新たな耐震補強の考え方が生まれた場合でもそれに対処できるよう、補強材により古材を大きく傷めない工夫。


実際の設計では耐震診断を行い、以下の点について補強による改善を行うこととした。

1.建物の浮き上がり(特に引張力を受ける柱)を抑えるため、柱脚部と既存基礎との緊結を行った。

2.既存内壁の内側にステンレス棒筋違いを設置し、既存に準じた化粧内壁を新設した。室面積を確保するため、筋違い・新設内壁はできる限り薄く納めた。

3.水平剛性確保のため、床組補強を行った。

 □ 2002.07.23 小笠原伯爵邸プレオープン

【事業決定】
平成13年より修復工事を続けていた、東京都所有の旧小笠原邸が、結婚式場・レストラン・ミニ絵画展場としてプレオープンした。
この事業は平成12年に東京都生活文化局よりPFI事業として公募された。歴史的建造物の保存活用に、PFIが導入された初めてのケースである。 事業主とはプロポーザルを経て、インターナショナル青和鰍ノ決定し、同社計画にあわせた修復工事に着手した。 工事は現在レストラン部分と絵画展示場を中心とした部分の修理が完了しており、今回のプレオープンにいたった。
完全オープンは、修復中の部分の修復が完了してのこととなる。

【修復グレード分けの試み】
今回、プロポーザル公募の段階で、建物の部分において修復グレードを設定する旨の発表があった。小笠原邸全体を4つのグレードに分類し、 グレードごとの修復の程度を設定するものである。グレードは
    グレードa:復   元  -オリジナルへの修復・復元(様式復元)
    グレードb:改   修  -用途に応じた材料による修理・活用
    グレードc:機能維持T-用途に応じた改装(改造・新機能付加)
    グレードd:機能維持U-躯体保存等の現状維持(清掃し最低限の内装を施す)
となっている。
これに従って修復計画がたてられた。今回の修復工事は工種ごとの分離発注の形をとり、監理者・監修者が工程・工法を監理している。 また修復の工法や現状変更内容は、東京都が組織した諮問委員会の承認を得て行うものである。

【建物について】
旧小笠原邸は昭和2年建築。小倉藩主であり、武家礼法の宗家でもある小笠原家30代当主長幹氏が建築したもの。昭和23年に米軍接収されるまでは、 小笠原伯爵家の住宅として使用されてきた。接収後の昭和27年に東京都が買収した。その後、昭和50年まで児童商談所として使用されてきたが、 建物の痛みが激しく、長く閉鎖されていた。
建物は鉄筋コンクリート造、地下1階、地上2階建てで、延べ1106u。昭和初期に邸宅を中心に流行した、スパニッシュ様式。
噴水のあるパティオや、屋上庭園。掻き落し仕上げの外壁に、スパニッシュ瓦を使用したパラペットなど、日本のスパニッシュ建築の中でも完成度の高い意匠を誇る。 また戦前までの華族建築で見られる、イスラム風の内装を施した喫煙室など、内部空間にも見るべきところは多い。小笠原邸は別名「小鳥の洋館」と呼ばれることがある。 これは南側外壁の陶版タイル模様や玄関キャノピーなどに、小鳥や鳥籠がモチーフとして繰り返し取り入れられていることに起因する。
設計は曾根・中條建築事務所が、大正13年から15年にかけて行った。建物の見所のひとつでもある、喫煙室外壁腰に定礎を兼ねた、曾根・中条事務所の陶版画がはめ込まれている。